Chapter3: 『 花の芽 』
  まさしく春うららと言うにふさわしい穏やかな午後。雪菜は庭で、花壇の花に水遣りをしていた。ホースの先から飛び散る水しぶきが、太陽から放たれる螺旋をからめとって光を放つ。非常にのどやかな 日曜の午後だった。
休日、浪江さんはお裁縫教室があるので、此処にはこられない。 一人でいると、元々神経質な雪菜は色々な事を考えてしまう。

乖離の事は好きだった。恋と言う物を知ったのは、これが始めてだったから。本当にそうなのか?と尋ねられてしまうと 自信を持って答える事はできないけれど、彼の側にいると、とても幸せで…怖い。

雪菜はずっと知っていた。乖吏が、何時が、自分以外の女性とはどんな関係を築いているのか。 重なる噂は嘘ではない事も…けれど、それは雪菜にとってはあまりに複雑で理解できない事だった。 気にならない訳ではないけれど、なんとなく…聞けなかった。

それは、自分が触れてはならない事のようで。
聞いてしまったら、今の関係が壊れてしまうようで。

乖吏が、深く関わられる事を望んでいないと、雪菜は解っていたから。彼には何処か他人を寄せ付けない壁がある。 それは、人ならば誰しもが持っているものなのかもしれないが…それを 壊そうとする勇気は、雪菜には無かった。

だって怖い。
もう少しだけだもの…できるだけ一緒にいたい。
あまりに違う乖吏を、見るのは怖いの…

「…!!」

かなりの間ぼーっとしていたらしく、雪菜が我に帰った時には、植木鉢の殆どは無残にも水浸しになっていた。 声にならない(なれない)叫びを上げて慌てて水を止めた雪菜だが…もはや遅し。

(わ〜ん…ごめんなさい〜〜〜〜!!!)

そして、花に謝っても無駄である。幸い、この庭には、特別手入れを必要とする程のデリケートな植物もないので(デリケートな植物は 全滅したからかもしれないが)大した事はないのだが、それでも罪悪感を感じずにはいられない雪菜がおろおろしていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。

(…?…誰かなぁ?)

一応一人暮らしである雪菜の家を尋ねる物は少ない。とりあえず、押し売りっぽい人ならば居留守を使ってしまおうなどと 考えながら、そっと外を覗いた雪菜は、見つけた人物の姿にほっと胸を撫で下ろした。

「こんにちは、雪菜ちゃん。突然悪いわね。」

そっとドアを開けると、真赤な口紅とマニキュアを塗った、一見厳しそうな印象を受ける美しい女性が立っていた。 どう見ても、明らかに雪菜とは別次元で生きていそうなこの人物が、雪菜とどのような関係なのかというと、 一言に言えば、"墓参り仲間"である。何ヶ月か前、偶然両親のお墓参りに行った時に、隣の墓前に立っていてたのが 彼女で、それ以来何故か墓参りに行く度に会ってしまい、現在にいたっていると言う訳だ。運命的と言えなくもないが 細かい事は説明しないでおく。ともかく、この妖艶美人な彼女…美尾里さんが此処に来る理由と言えば一つしかない。

「実は、今日用事があって忙しくて…この子の散歩、行ってくれるかしら?」

そう、その理由とはは何を隠そう、犬の散歩であった。美尾里さんの様な上品で、どこから見ても上流社会で生きていそうな女性から考えれば、大体の人はヨークシャテリアか其処から辺を連想するであろう…が、彼女の愛犬(その名をジョニー)は まごう事無く、純潔の…大型日本犬であった。
こんな風に、毎回犬の散歩を頼まれれば、大抵の人は多少の嫌悪感も覚えるかもしれないが、雪菜としては、一人でいても寂しいので、願ったりだった。 美尾里さんの方も、日曜日か、休日の日にしか尋ねてくる事はない事から、彼女の気遣いでもあるのかもしれない。
雪菜が嬉しそうに頷くのを見て、彼女も満足気に笑うと、夕方迎えにくるからと言い残して、車に戻っていた。

(それじゃあ…行こっか。ジョニー君。)

ちょっと低めに視線を落とすと、ジョニーがわほわほと尻尾を振る。 動物は、なんだか何も言わなくても気持ちを解ってくれそうで嬉しい。雪菜はにっこりと微笑んだ。





そして、約30分後。

(ジョニー君〜。何処まで行くの?)

犬に聞いても無駄だと思うが、雪菜はジョニーに連れられるままに、大通りを歩いていた。これでは、立場がまるっきり逆である。 が、基本的に犬の散歩=公園と言う常識を持たない雪菜は、はっきり言って何処に行ったら良いのか解らないのだ。 だからと言って犬の成すが侭にされるのもどうかと思うが、幸いこれでも賢いジョニーは、今まで大して問題になる様な場所に 行った事はない。それはそれで、ならば勝手に散歩に出せば良いのではないかと言う疑問が生まれるのだが…

ぴたり

ジョニーが丁度通りを曲がりかけた刹那、今までのほほんと歩いていた筈の雪菜の足が一瞬で止まった。何やら、心底不味い物を 目撃してしまった様な表情を浮べる雪菜の視線の先には…乖吏がいた。そして、その横には、少し年上かと思われる女性の姿があって。 どんなに鈍い雪菜にでも『そういうお付き合い中』だと解ってしまう程に、その女性は綺麗で。遠くから見ても、似合いのカップルだと一目で解る。この様な状況に なった事は一度や二度ではないので、初回の様なショックはないのだが…それでも、雪菜にとって見たいと思うような代物ではない。

(はぅ…ジョニー君、お願いだから速く行って〜!)

が、しかしその雪菜の心の叫びとは裏腹に、ジョニーはどうやら雪菜が止まったのは見たい物がある為であると勘違いしたらしく、かいがいしくその場に留まっていた。 ならば無理やり連れて行けば良いのだろうが、雪菜の辞書に「無理やり」と言う単語は入っていないようだ。

何やってんだ?あいつ。

道一つ挟んだ向こう側で、乖吏も雪菜の姿を見つけていた。とは言っても、実は視力があまり宜しくない彼は、彼女が、何やら巨大な 茶色い物体と共に、道中でおろおろとしている様にしか見えない。怪しい…と思っても無理はないだろう。

不意にはたりと視線が…合った気がした。

雪菜がぺこりとお辞儀をする。彼女としては、唐突の事で気が動転してしまい、 略無意識の内にしてしまった事なのだが、それが妙に壺に嵌ってしまい、乖吏は思わず吹き出した。

「何処見てるの?」

その様子に、傍らの女性が、怪訝そうに尋ねて、乖吏の視線を追う。振り向いた妖艶な視線と、予想よりもずっと端麗なその面に 雪菜は思わず硬直した。

なんだか…怖い…。

だが、圧倒される雪菜をよそに、女性の視線は直に戻される。

「私を奪っておいて、もう他の子を見てるの?酷い男ね。。。。」

そして自然に…違和感を全くもって感じない程優雅に、女性はその唇を重ねた。
さすがに場数を踏んでいるだけあって、それは巧みで、男の理性を一つ一つ取り除いて行ってしまう。麻薬と言っても過言ではなかった。そして、それに答えるようにして、 乖吏は女の腰を引き寄せた。

シャリン…。

遠くで、金属音と、駆けて行く足音が聞こえた気がして。
乖吏が、もう一度視線を通りの向こうに向けた時、雪菜の姿は既になかった。

やば…お子様にはちょっと刺激が強すぎたか?

少しだけ彼の心を占める罪悪感は、雪菜が望む物ではなくて。
悲しい程に伝わらない気持ち。
伝える勇気がない気持ち。





(はぁ。。。。。。)

雪菜は盛大に溜息をついていた。余りに刺激の大きかった光景に、 解ってはいたが、現実を突きつけられたようで、心の中がぐちゃぐちゃとしていて 気持ちが悪い。

シャリンシャリン…

摩擦する金属音が背後から聞こえて、雪菜は振り返った。

(あ…)

咄嗟の事で、ジョニーを置いて走ってきてしまった事に今更気付いて、雪菜は思わずその巨体を抱き締めた。何時の間にか、元来た道を戻っていたみたいで、 其処は自宅付近の公園だった。もしも、着いてきてなかったらどうなっていた事か…流石は美尾里さん自慢の賢犬である。

(ごめんね〜。ジョニー君。えらいえらいv)

ジョニーがわほわほと首を振る。ぎゅっと抱き締めていると、毛並みの感触と、体温が温かくて。

ぽたぽた…
(あ…れ…?)

頬を流れた雫の感触に驚いて、雪菜は瞳を拭った。特別悲しくはなかった筈なのに…どうして…?
知りたくないと思って、壁を作ったのは自分自身なのに…
背を向ける事にしたのは、紛れもない自分なのに…

なんて我がままなのだろう…こんな時は、自分自身がとても嫌になった。一体何を望んでいると言うのか…これ以上何を望むと言うのか…

(ふぇぇ…誰にも言わないでね。私が泣いていた事)

止まらない涙。
自分と同じように言葉を話せない大きな生き物の首にしがみ付き、雪菜はひっそりと泣いた。

他の人…見ないで…
乖里君。。。。。まどかちゃんにボコされないようにね。。。(爆)
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